町の沿革
門川町の藩制時代は延岡藩に属し、大字門川尾末に大庄屋を置き、宇納間村、黒木村、入下村、川内村、門川尾末村の5か村を統括して、門川組と称されしたが、庵川村と加草村は恒富組に属しました。明治12年12月、加草村と庵川村の戸長役場が加草村に、門川尾末村と川内村の戸長役場が門川尾末村に設置されました。
明治17年1月、臼杵郡は、東臼杵郡と西臼杵郡に分けられ戸長役場の管轄が拡大されました。その結果、門川尾末村、加草村、庵川村、川内村の戸長役場が門川尾末村に置かれることになりました。
その後、明治22年4月、町村制が実施された際、前記4か村を合併して門川村となり、千田ノ木に役場庁舎を建築し、開庁と同時にそれまでの戸長、副戸長、里正の名称は、村長、助役、収入役と改め、議決機関として初めて村会議員が村民より選出されました。
つづいて大正12年、現在地に木造2階建の役場が新築され、以後村政は、日豊本線の開通など文明の光を受け、順調な発展を続け、昭和10年2月11日に町制が施行され門川町となりましたた。当時の世帯数2,289世帯、人口11,684人でした。
出典:宮崎県門川町公式ホームページ - かどがわあれこれ 今昔 門川町統計書 (沿革・自然)